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東大卒だって順風満帆じゃない、しくじりの果てに生まれたhokan

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株式会社hokanの代表取締役CEO 尾花政篤の"東大卒だって順風満帆じゃない、しくじりの果てに生まれたhokan"のページです。

私は幼少期、学校の先生だった祖父から勉強を教わったり、年子の兄が塾の宿題をしているのをならって勉強したりしていました。そんなこともあって、小学校の頃はよく「オバ、頭いいね」と言われていました。一方でクレヨンしんちゃんやコナンが教育上よくないという理由で見られなかったり、小6の時、当時全盛期だったSPEED・SMAPを知らなかったりして、クラスの会話についていけませんでした。頭が良いことを褒められるのは嬉しかったですが、クラスの皆んなと本当の意味で仲が良い訳ではない、本当の自分を見てもらえている訳ではない、と感じていました。

その後、中学校受験で筑駒というザ・進学校に進みました。そして東大に進学しました。筑駒・東大と進んだ人は、医者・弁護士・研究者・官僚など、"先生"と呼ばれるような職業につく人が大半でした。学校名を話しただけで、色眼鏡で見られることも多くありました。しかし、「能力や肩書きだけで判断されて、本当の自分を認められていない」ことがコンプレックスだった私は、自分の”真の実力”で認められたいと思っていました。

就職活動を始めた時、”真の実力”で勝負して自分の名前で認められることができそうな業界として、コンサル業界を見始めました。「地頭で勝負だ!」と思って、面接対策をほとんどせずに複数のコンサルの会社の選考に臨み、ことごとく落ちました。唯一、ベイカレントだけは、コンサルらしいビジネスケース(「マクドナルドの売上を上げるためにはどうしたら良いか考えなさい」のような問題)の面接が当時はなかったこともあり、選考を通過していきました。ベイカレントの面接では、どの選考官も自然な会話をしているかのようで、リラックスして話せました。それでも、最後には私の本質を見抜いて、的確な指摘をされました。1時間ほどの面接で本質を見抜かれるのは衝撃でした。それまで会ったことのないような方々で、ビジネス戦闘力が高く、”真の実力”のある方々だと思いました。

内定が出て入社した後、選考官の方々の戦闘力が高かった理由を探ってみると、営業や人事を行う、通称BPと呼ばれる部門を経験されていたからだと分かりました。ベイカレントには当時、BPとコンサルタントの2つの部門があったのですが、このBPという部門は「経営者集団」と言われていました。コンサル会社は、案件を受注して、そこにコンサルタントをアサインし、案件の受注金額からコンサルタントの人件費を差し引いたものが利益になるというビジネスモデルです。営業・人事の役割を一挙に担うBPはいわば“ミニ経営者”でした。私はBPではなく、コンサルタント部門の配属として入社したのですが、実力の謎が分かったので「BPになりたいです!」と会社に伝えました。

しかし、当時のコンサルタントの上司には「お前は経営の厳しさを何も分かっていない。経営なんかできる訳ない。」と言われました。「私には経営は無理なのだろうか。」と迷いが生じた私は「ベイカレントの創業者に話を聞きたいです!」と申し出ました。BPとコンサルタントの部隊を分けるという仕組みを作ったのがベイカレントの創業者だったので、その方に聞けば間違いないと思ったからです。そして、ベイカレントの創業者の方とご飯をご一緒する機会をいただきました。その方は「経営には正解というものはないんだよね。だから、あくまで一つの考え方と思って聞いてもらいたいんだけどね。」と前置きをされた上で、「尾花君はいわゆるエリート街道を歩んできたから、何者かにならなきゃいけない、立派にならなきゃいけないと思い込んでいるだけじゃないかな?」と言われました。それを聞いて、確かに私の中に「何者かになって、認められたい。」という強いエゴがあることに気づきました。「イキってただけかもな。。」と反省しました。それに、BPの方々は営業・人事の猛者なだけあって、コミュ力が尋常なく高い方々ばかりでした。「自分にはコミュ力はないし、BPは難しいかな。。コンサルタントに配属されたということは、客観的に見てコンサルタント向きだということだと思うし、コンサルタントをやろう。」と自分に言い聞かせて、BPではなくコンサルタントの道を歩みました。

コンサルタントの道を選んでからは、運が良いことにパートナーの方や、最年少でマネージャーに昇格した記録を持つ方に目をかけていただき、順調に職位を上げていきました。

特に保険業界のプロジェクトではコンサルタントとして大きく成長できました。初めて1人だけでプロジェクトを遂行したのも保険会社でしたし、初めてチームの責任者としてプロジェクトを回したのも保険会社でした。保険会社の社員の方は思いやりのある方が多く、立場の違いを超えたフラットな関係で、お互いに良い影響を与えながらプロジェクトを進められました。特にA社のIさん、 Sさんとご一緒した際は、毎日のようにランチをご一緒したり、保険業界の仕組みや実態を教えていただいたりながら、プロジェクトを進めました。本当に良くしていただき、プロジェクトの最後には泣いて別れるほどでした。

次でマネージャーに昇格できるところまで到達した時、「このまま職位を上げ続けていくのは、何か違うな。」と感じるようになっていました。コンサルタントは過去のプロジェクト経験や取得している資格で自分の価値を顧客にアピールします。経験やスキルが積み上がれば積み上がるほど自分の価値があがり、高い売上を上げられるようになります。肩書きや能力で評価されるのではなく、真の実力で評価されるようになりたくてコンサルになったはずが、その真逆をいっていたことに気づきました。とはいえ、BPになることは難しいと感じていました。BPに近しい業務として新卒採用チームに配属になった時に、ほとんど成果を上げられなかったからです。

社内で道がない以上、経営者になるためには起業するしかないと思い、事業案を考え始めました。私自身の強みを活かせるアイデアとして、AI×動画解析のビジネスを思いつきました。私は中高時代にパソコンを自作したりしていてITは得意な方でした。また、当時AIはまだまだ話題になり始めたばかりだったので、このアイデアであれば勝てるのではないかと考えました。

私はITコンサルタントではあったものの、自分でシステムを開発したことはありませんでした。そこで、ベイカレントの同期や大学時代の友人に、事業案を熱心に話してまわりました。いろんな人と話している内に「その事業案は面白いね」と言ってくれる人も出てきました。結果として、

・数学が得意でAIを実装できるメンバー ・大量のデータを扱うインフラ構築に長けているメンバー ・ムードメーカーで営業が得意なメンバー

の3人が一緒にやってくれることになりました。早速、事業案をもとにプロトタイプをつくり始めました。それぞれの家に集まったり、みんなで議論したりしながら、事業を進めるのはすごく楽しかったです。

はじめてのプロトタイプづくりは大変で、揉めることもありましたが、何とか完成しました。早速プロトタイプをもってユーザーにヒアリングにいったのですが、AI×動画解析のビジネスは事業として成り立たないことが分かってきました。最先端の技術は面白いと思ってもらえたのですが、お金を払ってもらえるほどの強いニーズがなかったのです。

そこからは、ピボットを繰り返し始め、迷走しました。この時検討した事業案は多岐にわたるのですが、その内の1つには「訪日外国人旅行者に一眼レフカメラを貸し出す」なんてものまでありました。「何事も検証だ!まずはやってみよう!」と言って、外国人が沢山いそうなイメージのあった代々木公園に行って手作りの看板で集客しました。人が全然いなかったので原宿の竹下通りに移動しました。看板を見て話しかけてくれる人は誰一人としていなかったので、こちらから写真を撮りたそうな人に話しかけに行きました。1日経って10円の売上で終わりました。せっかく優秀なメンバーを集めて、散々手伝ってもらったのに、何一つ実っていないことに焦りを感じ始めました。

このままだとマズいと思って、事業案の発想方法を見直しました。あまりにも事業アイデアが広がりすぎていて、1つの事業案で失敗した経験を次の事業案に活かせていませんでした。「事業領域を絞るべきだ」と思い、私が取り組むべき領域はどこなのかを真剣に考え始めました。社会的意義があって、世の中にニーズがあって、想いを持って取り組めて、勝ち目がある事業領域はどこなのかを探しました。順番に絞り込んでいくと、唯一InsurTechが残りました。

2016年当時、InsurTechは海外だと盛り上がり始めており、巨額の資金調達をするスタートアップも出てきていたのですが、日本には1社もInsurTechのスタートアップはありませんでした。私自身がコンサルタントとして保険業界を長く経験していたこともあり、保険業界のシステムに確実に課題があることは分かっていました。コンサルタントとしての契機になるような経験ができた保険業界には恩も感じていました。法規制の厳しい業界だからこそ、コンサルで身につけた構造化の力も活かせると考えました。

チームとしての成果をあげられず焦っていた私は、事業領域をInsurTechにしようと決めて、「私が先に会社を辞めて、事業をつくるから、皆んな後からついてきてくれ!」とメンバーに伝えました。メンバーからは「事業領域は分かったけど、辞めるのは事業案をもう少し具体化してからでも良いのでは?」という意見も出ました。とにかく何とかしなきゃと思っていた私は「とりあえず、いくわ!」と言って、話も聞きませんでした。会社でお世話になった方にも引き留められましたが「起業します!InsurTechはチャンスあると思うんです!今行かなきゃだと思うんです!」と言って、会社を辞めました。

会社を辞めてからは、海外のInsurTechの事例を大量にリサーチしたり、保険に関する体験を家族や友人にヒアリングして課題を探ったりしていました。まだ会社を辞めていなかったメンバー達にも、家族や友人へのヒアリングをお願いしたりしていました。

そんなある日、メンバーの1人から「ちょっと話したいことがあるんだけど、、」と突然呼び出されました。「何の話だろう?」と思いながら、そのメンバーの仕事が終わった後、夜21時頃にマクドナルドの新橋日比谷店で合流しました。そのメンバーから「落ち着いて聞いてほしいんだけど、、他のメンバー2人が辞めたいといっているんだよね。」と伝えられました。ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けました。「辞めたい?嘘だろ、、??」 目の前が真っ白になり、何も考えられなくなりました。それでも「リーダーはこういう時に逃げたらダメだ」と自分に言い聞かせ、何とか気を保って「ちょっと、、直ぐに全員で話そう。」と言いました。

その数日後にメンバー全員に集まってもらいました。場所は東京駅近くにある、東京都が起業支援の場として提供しているStartup Hub Tokyoだったことを明確に覚えています。たった4人のチームなのに、本音を間接的にしか聞けなくなっている時点で、もう終わりだと分かっていました。「今正直にどう思っているかを教えて欲しい。あと、何がいけなかったのかフィードバックが欲しい。チームとしての振り返りもしよう。」と伝えて、最後だけでもリーダーらしく振る舞おうとしました。「最初の事業案は良かったよね。そこからピボットし始めておかしくなったよね。保険業界のプロジェクトを経験したことがあるのは私だけだし、InsurTechをこのメンバーでやるのは違うよね。」と、それっぽい落とし所を見つけて、別れました。スタートアップが始まる場所で、1つのスタートアップが終わりました。

仲間と別れて1人になってしまいましたが、「起業するので会社を辞めます!」と大口を叩いて会社を辞めた以上、何もしない訳にはいきません。お金はないのでマクドナルドで100円のコーヒーを啜りながら、友達に借りたASUSの2万円ぐらいの小さなノートパソコンを触りながら、InsurTechのリサーチや事業案の検討を続けました。

そんな時、「InsurTechなら、この事業案は可能性がありそう」と思っていたアイデアを既に実行している会社を見つけました。その会社がFINOLABでセミナーを開催することが分かりました。「どんなもんか見に行って、良さそうだったら全部パクって自分でやってやろう」と思ってセミナーに参加しました。そのセミナーの主催者だったのが、ファイナンシャル・ジャパン代表の小坂さんです。(現在、小坂はhokanの取締役です)

小坂さんに話を聞いて驚いたのは、業界の未来に対する深い洞察があったことです。ご自身の保険販売経験・保険代理店経営経験・海外を見てまわった経験など、実体験に基づく洞察だからこそのリアルがありました。経営者としても成果を出してきた自信と余裕がありました。正直なところ、事業案の検討も行き詰まり、経営者としての限界も感じていた私は、藁にもすがる思いで、小坂さんから経営道を学ばせていただくことにしました。

当時、ファイナンシャル・ジャパンの本社があった五反田に通う生活が始まりました。小坂さんには「まず生活習慣を正しなさい」と言われました。私は会社を辞めてから、9時に出社する習慣がなくなり、自分を律することができず、生活リズムが不規則になっていました。小坂さんとの打ち合わせの開始時刻は、生活習慣を正すことも兼ねて、7時・8時に指定されました。急に生活リズムを変えたせいで朝の電車で腹痛に見舞われ、何度か遅刻しました。当時は心身ともにボロボロだったので、遅刻しても小坂さんに笑って迎えていただけたことは安心しました。

また「ちゃんと人生の振り返りをしなさい」というアドバイスをもらいました。上手くいった時はどんな時だったのか、反対に上手くいかなかったのはどんな時だったのか。幼少期から現在までの人生の振り返りをしました。「起業しようとして失敗した本当の理由は何か、ちゃんと考えなさい」とも言われました。

振り返りを進めると、段々と自分の成功・失敗の傾向が分かってきました。「オレがやっている」と勘違いして突っ走った時は、いつも失敗していました。一方で、ダンスサークルの卒業公演の総指揮をやった時も、ベイカレントで新人研修を企画した時も、上手くいっていた時は自分が出来ないことをちゃんと理解して、素直に周りの助けを借りていました。起業に失敗した時も、傲慢になって「オレが何とかしてやる」と突っ走り始めてからおかしくなりました。素直に「助けて欲しい」と伝えて、優秀なメンバーに力を借りているときは上手くいっていました。

そして、不思議と優秀な人が周りにいる運の良さもあることに気づきました。これまでの人生において「私には敵わないな」と思うような人が周りに沢山いました。人に恵まれていることへの感謝を忘れて傲慢になってはならないと肝に銘じました。

それでもまだ、一度失敗した自分が、果たして本当に経営者になれるのか、自信がもてませんでした。まだ準備が足りていないような気がしました。

起業をすることを諦めて、コンサルへの転職活動をしたこともありました。何社か選考を進めましたが、「またサラリーマンになったら全てが無駄になってしまう」と思ってやめました。ベイカレントに戻ることを考えたこともありました。「ここで戻ったら負け組になる、それだけは絶対に嫌だ」と思って、ベイカレントに戻ることもやめました。「保険を自分で一度も売ったこともないのに、保険の事業をやるのは難しいのではないか?」とも考えました。実際に自分で保険を売る経験をするため、某外資系保険会社の採用プログラムや某大手保険ショップの面接を受けました。面接を進めている過程で、ふと「また、人に頼らず何もかも自分でやろうとしているじゃないか。失敗パターンだ。」と気づいて、やめました。

会社を辞めてから半年以上経っていました。小坂さんにシンガポールで開催されたInsurTechのイベントに連れていってもらいました。シンガポールでの最終日、小坂さんに「で、どうするの?」と聞かれました。まだ腹は決まっていなかったのですが「日本でInsurTechをやるなら、BtoBだと思うんですよね。」とか口だけは一丁前なことを言っていました。小坂さんに「じゃあ、もういいからやれ!」と言われました。

日本に帰国した後、2017年8月1日に設立した会社が今のhokanです。当時の会社の名前はALLINS(オールインズ)でした。会社を創業してから3ヶ月ほどはメディア(保険代理店開業.comInsurTechJapan.com)を作っていましたが、システムを自社開発する必要があると感じていました。エンジニアが必要でした。過去の繋がりの中で絶対に誰かエンジニアがいるはずと思って、FacebookやLINEの友達リストを隅から隅までチェックして、少しでも可能性がありそうな人には片っ端から連絡しました。その時に連絡した1人が今のhokanの取締役CTOであり、中高バスケ部の時、1学年下の後輩だった横塚です。横塚は、先生と呼ばれるようなキャリアに進む人が多い中高の中で、唯一ベンチャーでチャレンジしていました。小坂と一緒になって口説いたところ「分かりました。今お二人が考えているシステムは私が作ります。」と言ってくれました。システム開発が始まりました。運が良いことに創業の翌年、2018年は"日本のInsurTech元年"と呼ばれた年で、InsurTechスタートアップというだけで注目を浴びられました。そこからは順調に事業を進めることができています。(もちろん、ずっと順調だった訳ではなく、システムの大きな方向転換があったり、2年ぐらいシステムがまともに売れなかったりしたのですが、その話はまたどこかで。)

こうした経験を経て、hokanを経営するにあたって心がけるようになったことがあります。

まず、強みを活かすことを心がけるようになりました。強みと弱みは表裏の関係にあります。私は、社交性は低いですが、特定の人と親密な関係を築くのは得意です。交渉・調整は苦手ですが、根幹の論理をつくるのは得意です。私自身はもちろん、hokanのメンバーも強みを活かし、弱みをカバーし合えるような組織を作っていくようにしています。

保険も様々な人が強みを活かしあうことで回っている業界です。数学のプロであるアクチュアリーが保険商品を設計しますが、人の感情に寄り添うプロである保険営業が保険を販売します。保険商品に詳しい人もいれば、保険システムに詳しい人もいます。高速かつ正確に事務処理を進める人もいれば、事務処理は全くできないけどセールスはピカイチの保険営業もいます。誰一人欠けても保険業界は成り立ちません。

私自身、起業するのかしないのかを悩んだり、事業領域を絞り込んでいく過程で、自分の人生を徹底的に見つめ直しました。ありがたいことに私自身は人や時の運に恵まれて、望んでいた経営者の道に進むことができました。hokanに関わってくれた方の人生も、hokanに関わることで好転していってほしいと願っています。採用候補者の方とお会いする際は、その方の人生の物語とhokanでのキャリアが一致するのかを確認させていただいています。

保険も「大切な存在に関わる重大な出来事・価値観・お金の出入り」に向き合う商品です。だからこそ、保険事業者は、企業や人が何を大切にしているのか、過去どんな出来事があって、将来どうなりたいのかを知らなくては、最適な保険は提供できません。さらにデジタルに事実だけを知るのではなく、その裏にある価値観の変化や感情の起伏にも寄り添わなければなりません。そんな保険業界には人の力は不可欠だと考えています。

経営する理由は当初「何者かになりたい」というエゴでした。しかし、社員が増えて、顧客が増えて、調達額が増えて、責任が増していくに従って、経営する理由は変わっていきました。保険業界には山ほど課題があります。優秀なメンバー集まってきて、その課題にチャレンジする機会をいただけました。InsurTechのスタートアップが少ないこともあり、業界で注目していただくこともできました。hokanがこの保険業界のあるべきシステムの未来を描き、その未来を実現することは、責務だと捉えています。hokanには「なすべきことをなす」マインドを持った心強いメンバーが集まっています。

保険業界も大きな責任を負っています。保険料をお預かりしている限り、保険期間中であれば何年たっていようと、万が一のことがあれば確実に保険金を届ける必要があります。また「保険って確率的には損する訳だし、いらなくない?」と言うのは簡単です。それでも、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震では1兆2862億円の保険金が支払われ、生保においては1日あたり507億円の保険金・年金・給付金が支払われています。保険は人知れず今日も誰かを支えています。保険は一般消費者と保険事業者の情報の非対称性が大きいことから、毛嫌いされることもありますが、確実に人の役に立つ仕組みです。安易に「保険はいらない、安い方がいい」と言うのではなく、責任を持って人それぞれの価値観にあった保険を届けていくのは保険業界の責任です。

今では、hokanが保険業界随一のテクノロジーカンパニーになり、ミッションである「保険業界をアップデートする」を実現することが、世の中のためになると確信を持っています。これからも人生をかけて、保険業界をアップデートし、世の中を良くしていきます!

ここまで、長文読んでいただきまして、ありがとうございました!

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尾花 政篤(Masashige Obana)
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